2023年1月30日小石川植物園にてカワセミ
分かりにくいと思いますが、カワセミです。
小さな池で狩りをしていました。
水の中に突き刺さる瞬発力。水中から飛び立つ背中のきらめき。
その青さ。ゴージャスです。
ただ、ものすごく忙しそうで、だから、写真もこんな感じ。
2月から3月にかけて、この辺りにいると思います。
そっと見守っていれば逃げないので、また会えるといいな。
狩りをしているところ、子供たちにも見てほしいな。
分かりにくいと思いますが、カワセミです。
小さな池で狩りをしていました。
水の中に突き刺さる瞬発力。水中から飛び立つ背中のきらめき。
その青さ。ゴージャスです。
ただ、ものすごく忙しそうで、だから、写真もこんな感じ。
2月から3月にかけて、この辺りにいると思います。
そっと見守っていれば逃げないので、また会えるといいな。
狩りをしているところ、子供たちにも見てほしいな。
1月7日の夜、今年初めての満月を迎え、
今朝、その月を見送りました。
とても静かで、ありがたく、心鎮まりました。
この神聖な気持ちを保ち続けられるかどうか。
たぶん無理でしょう。
でも、月は繰り返し、初心を問い続けてくれると思います。
年を重ねてゆくにつれ、物事の理解は深まってゆくのだろうと思っていた。
よくわからないことも、やがてわかるようになるのだろうと。
今よりずっと若いころ、そんな風に思っていた。
しかし、現実はまるで違っていた。
人生はますますわからなくなってゆく。
2022年が暮れてゆく。
今年観た映画の中で最も印象深かったのは「水の中のナイフ」。
「太陽がいっぱい」を裏返しにしたようなシュールな作品(1962年)
そのラストシーンに、夫はポカンとしていたが、私には余韻が残った。
水に落としたナイフの不穏。その行方も人生も、わからないものです。
不忍池には、冬枯れの蓮の姿。
見上げれば、万華鏡のような、光と影のモザイク、葉っぱ、葉っぱ、葉っぱ。
12月だというのに、まだフレッシュな秋の色づき、
そうかと思えば、もうすっかり葉を落とした木々も混じる。
だから、上も下も、葉っぱ、葉っぱ、葉っぱ。
子供たちにはぜひ、降り積もる落ち葉を踏みしめる喜びを味わってほしい。
土の上に積もった落ち葉のその柔らかさや乾いた音を楽しみながら歩いてほしい。
そういう経験をさせてあげることこそ、子供たちへの贈り物だと思う。
樹木を愛する者は、きっと幸福になる。
なぜだか知らないが、世界は、そういうふうにできている。
私にとって、メタとは、メタセコイアの森である。 濃い琥珀色の紅葉で、都内で最大級の森は水元公園にある。
写真は小石川植物園。こうした森の木々に、どれほど心をなぐさめられたことだろう。
デジタルや人の世で痛んだ脳を回復させる治療塔。
本郷の東大前にあった「ヴァリエテ本六 Gallery and books 」
その店主である高橋丁未子さんが、
「ホットケーキがやけるまで ーヴァリエテ本六 diaryー」を出版されました。
高橋さん(本六さん)には、多くの人がお世話になり、私もお世話になりました。
お店は、2019年閉店となりましたが、「無限古書店」として映像の中にも残された、
たぐいまれなるギャラリーでした。
カマキリが蜘蛛の巣に囚われの身となりました。
10月の森は蜘蛛の巣だらけ。
夏虫を消化し昇華させてゆく蜘蛛は、森のスカベンジャー。
その蜘蛛も、蜘蛛の巣も、冬にはすっかり姿を消します。
それが自然の摂理なのだと、森が教えてくれる。
最初はぎょっとしたが、今は注意深く歩いている。
冬が来る前に、いっとき蜘蛛の巣城と化す森の道。
この日はたまたま新宿御苑。
稀代の二枚目俳優・市川雷蔵は1969年37歳の若さで亡くなった。
写真で見ると、その素顔はとても地味で目立たない。無色透明な人だ。
ところがメイクアップすると、周囲が驚くほど劇的に変化したという。
無色透明な顔の原型は、変幻自在に大化けした。
生い立ちの不幸や不運も反転させた。
スーパーマンみたいな役者さんだったのですね。
今朝、純白の満月を、西の空に見送りました。若いと思いました。
雷蔵のようにすーっとした顔立ちの、名残りのお月さまでした。
小石川植物園に入るとすぐ左手の森に彼岸花の群落がある。
花火のように華やかな花なのに、茎だけすーっと伸びて咲くから、
魂が灯っているようで、いつも不思議な気持ちになる。
土の下、その球根には毒がある。 毒は薬で、薬は毒。
元々薬草園だったから、こんなに群生しているのかもしれない。
ネズミやモグラを寄せ付けないためだったのかもしれない。
謎めいて美しいから怖いけど、すごい薬が生まれるかもしれない。
「とってもおいしいよ」 黄揚羽が蜜を吸いに来た。
アザミに取りつくマルハナバチ。
花粉にまみれながら働いています。
このマルハナバチは、トラマルハナバチでしょうか。
<虎の子タワシ>のようです。
マルハナバチが、積極的に人を刺すことはありませんが、
蜂が活動期を迎えています。
一般的に8月から10月くらいまでは、最も危険な活動期。
心して行動したい。
蓮の舟に乗って 渡って行きたい場所がある
私はそれを漕がないから 蓮の舟には櫂がない
どこへも行けない舟なのに
舟が出るよと誰かがいった
夏の帽子と日傘のふたり
無縁坂から見送れば 風
東京・上野・不忍池
7月某日、室堂山から浄土山を経て立山へ向かう登山道。
霧がかかり、視界不良の中、
ハクサンイチゲの花畑をゆったり歩く雷鳥の親子に出会った。
霧が深まると天敵を避けられるので、姿を現す。
雷鳥は、氷河期の時代から、ずっと命をつないできた。
高山植物も、厳しい環境に耐えながら適応し、花盛りだ。
私達は今、進化の過程の中にいる。
さまざまなウイルスが、進化の歯車を押している。
自然の声を受け取れなければ、人は霧の中で道を失うかもしれない。
雷鳥は、霧の中へ、堂々と歩みを進めていった。
2022年の土用の丑の日は、7月23日と8月4日。
やっぱりその日は、ウナギでしょうか。
あまのじゃくの方は、その日を避けるかもしれません。
鳥はどうやって「その日」を決めるのでしょうか。
先日、ヒヨドリの4羽の幼鳥が、巣立ちました。 そして、落ちました。
うまく飛べなくても、その日「離れなくては危険」と感じたのでしょうか。
親鳥は、その日、必死に鳴きながら、懸命に子らを捜し、護り続けました。
翌日も警戒は続き、三日目静かになりました。 旅立ちを信じています。
厳しい自然の中で、厳しい命のやり取りもあるでしょう。
ウナギ・トリ・シジミ・ハマグリ、食べる私も、動物ランドに生きています。
ヒヨドリのひなが孵りました。
スター誕生です。
口から生まれました とでもいうように。
親から餌をもらおうと、ピーヒャラピーヒャラ。
目も開き、日に日に大きくなっています。
いちいち感動します。
成長が楽しみです。
今はまだ、ちょっと恐竜っぽいですが、
恐竜にはならないと思います。
ワタシは トリではありません。
ワタシは カゴの一部です。
ヒヨドリが 花カゴみたいな巣をかけた。
羽根によく似た色の巣で、感動的に美しく、実によくできている。
場所の選択も絶妙で、上手に雨をよけながら、じっと卵を抱いている。
ワタシは トリではありません。ワタシは カゴの一部です。
ここには何にもありません。 微動だにしない ヒヨちゃんの覚悟。
このところ、小石川の森のカラスが、「アホッ アホッ」 と鳴いている。
鳴き方を練習している幼鳥だろうか?
それとも、私のことですか?
カラスはカラスとして、いろいろ理解している。
谷中では、まっくろくろちゃんが、路地のビワの木の上で、
たわわに実ったビワの実をしっかりつかんで食べていた。
その姿のご立派なこと!バランスの良い食生活を心がけているようである。
まっくろくろちゃんを描画する。 ようやく心が落ち着いた。
まだ人になり切っていない子どもは、神様とか石とかに近い存在だ。
大人になっても、心のどこかにそういう石を持っているのではないか。
胆石とか結石とかそういうことではなく・・・
ロシアの「石の花」という古い映画を観た。素朴でロシア的だった。
新潟港から船に乗ってロシアへ行ったことがある。ソビエト連邦の時代。
空港も地下鉄も、軍事施設ということで、写真撮影は一切禁止されていた。
監視のためのロシア人ガイド付きだったが、日本人墓地を案内してくれた。
昔、日本の南極観測船が氷に囲まれて動けなくなったとき、
助けに来てくれたのはロシアの船だったと聞いている。当時乗船していた観測員の話である。
その時ロシアの砕氷船は、いち早く駆けつけて、石のような氷を砕き、黙って帰っていったという。
この極小のネズミさん。体長5~6cm。
カヤネズミだと思うのです。
鬼怒川上流の森の道でバッタリ出会いました。
とっさのことで、ピント甘いです。
でも、必死のネズミの眼光は鋭かった。
明るいところが好きなのか、藪の中には逃げ込まず、川沿いを右往左往。
私たち、追っかけっこになってしまった。
驚かせちゃって、ごめんね。
この森の道の奥深く、天国のような温泉がある。
かけがえのない森のひととき。
ハクウンボクの花が咲き始めたと教えてくれた人がいて、
谷中の天王寺に立ち寄ってみた。
花房が、たなびく白い雲のように見えることから、
「白雲木」と名付けられたのだそうだが、
お寺さんは、この木を釈迦の涅槃となった沙羅双樹に見立てている。
釈迦はインドで、無憂樹の下で生まれ、菩提樹の下で悟りを開き、
沙羅双樹の花の下で亡くなったのだという。
インドのサラソウジュは、寒さに弱く、日本での露地栽培は難しいため、新宿御苑の熱帯温室にある。
映画「CODA」の中で、エミリア・ジョーンズが歌った「青春の光と影」。
…look at life from both sides now, from up and down.…
同じ歌でもアレンジと歌い手が違うとこれほど響きが違うのかと驚きました。
先日新聞のコラムに<事実は一つだが真実は人の数ほどある>という言葉が、
ロシアのウクライナ侵攻に関する警句として書かれていました。
同じ歌でも 歌い手で響き方が違うように、
同じ事実を語っても、語り手の位置が違えば、その見え方は違うのでしょう。
<実務において最も難しいのは事実認定である>という法曹関係者の話もあります。
そもそも事実こそが、一つではなく、人の数だけあるのではないか。
映画「羅生門」は、そのような<事実>を描いています。 事実は藪の中。
二羽のカラスガ世界を見ている。 枝の上から見下ろすカラスと木の下から見上げるカラス。
見えているのは、同じ一つの景色だろうか。